それは、長年の夢だった、とある文豪の初版本全集を、神保町の古書店で手に入れた、喜びの絶頂にあった日の夜のことでした。家に帰り、ウイスキーを片手に、その歴史の重みを感じさせる革装丁の表紙を、うっとりと撫でていました。そして、記念すべき第一巻のページを、そっと開いた瞬間。その静寂は、一匹の小さな侵略者によって、無残にも打ち破られました。本の綴じ目の、薄暗い渓谷から、銀色に光る、体長1センチほどのシミ(紙魚)が、まるで悪夢の登場人物のように、するすると這い出してきたのです。私は思わず本を取り落とし、その場に凍りつきました。喜びは一瞬で、言いようのない恐怖と、大切な蔵書が汚染されてしまったかもしれないという絶望感に変わりました。「シミが一匹いたら、他にもいる」。インターネットで調べたその言葉が、私の頭の中で警報のように鳴り響きました。その日から、私の週末は、シミとの徹底的な戦争へと変わりました。まず、問題の全集を、一冊ずつ大きなジップロックに入れ、完全に隔離。そして、我が家の書斎と化した部屋の本棚から、数千冊に及ぶ蔵書を、全てリビングに運び出すという、気の遠くなるような作業を開始しました。本がなくなった本棚の裏には、案の定、ホコリと共に、数匹のシミの死骸と、無数の抜け殻が溜まっていました。私は半狂乱で掃除機をかけ、棚板を一枚一枚、アルコールで拭き上げました。次に、リビングに運び出した本を、一冊ずつ、ページをめくりながら点検し、ハケでホコリを払う。この地道な作業に、丸二日間を費やしました。幸い、他の本への被害は確認されませんでしたが、心身ともに疲労困憊でした。この一件以来、我が家では、古本を家に迎え入れる際には、必ず「検疫」と称して、数日間ビニール袋で隔離し、徹底的にチェックするという、厳格なルールが設けられました。あの一匹のシミは、私に、愛するものを守るためには、時に臆病なくらいの慎重さと、途方もない労力が必要なのだという、忘れられない教訓を、その銀色の体で教えてくれたのです。